どこにでもある話の先とか

※若干のフェイクを入れてありますが、個人情報の保護のためとご理解ください。
 それと、まだ真っ当に部活動に入ってる人とか、まだ希望のある方は気分悪くなられちゃ困るんで読まない方がいいのでは。特に放送部について結構踏み込んでるので、関係者の方は読まないでください。切実に願います。いやいいけどさ……

 この話はちょっと話していて気分は良くないんですけど、最近眠れないので不安要素を消すために、あえて。

 僕は部活を引退した。というより、もう半分フェードアウトである。細かいことは伏せるが、まぁ所謂「消えた」形に近いかも。
 別に部員に嫌われていた訳では無い。むしろ仲は良かったんじゃなかろうか。そうじゃなきゃ、同じ部屋で毎日会おうとは思わないだろうし。
 それでも、過去を振り返りながらじっくり考えて、「向いてないなりにちょっと無理なんだな」と思い、顧問に相談してそういう形を取らせてもらった。
 ここでは、トラウマみたいなものを過去に遡って書くのも変な感じで生産性のないことだが、それでも書かないと苦しいので書く。

 中学生のときに遡って地鶏少年の話をする。
 僕は小学生のときに放送委員会に入っていたことがきっかけで、というよりその繋がりで放送部に入部した。その頃は放送に向ける感情だけ切り取ると純粋そのものだったが、小学生のとき受けた暴力で対人恐怖はちょっとあった。
 その放送部の顧問は、なんというか正論で叩きのめすタイプの人だった。辛辣さなら今まで出会った人の中で一番かもしれない。まぁ今の思想の原点の一つの方でもあるけど、それは余談で。
 中学生のときの放送部はちょうど2年生だけが多かったが、少数の3年の引退する秋までは彼女ら(放送部は総じて女子の比率が多い)の力でなんとかやれていた気がする。
 2年生がイニシアチブを取り始めた秋ごろから、発声練習が行われなくなっていった。もともとそういうことだったのだろう(まぁ中学の放送部はうちの場合コンテストに出るという発想が無かったのもあると思う)。
 糞ガキの僕は内心怒っていたが、同調圧力的なものが内心から透けて見えるのを感じた。変な空間だと思ったが、そこで辞めてりゃいいのに辞めてないからドMだな。
 2年の春からは老人ホームへのボランティア活動として落語などを朗読することになったが、これは普通に良かった。まぁいろいろあったが、これについては普通だった。
 しかし。秋口だったか、その前の週に出た朗読コンクール的なものの帰り道に連絡せず遊び回っていたのを親に連絡された部員たちが(僕ともう一人の先輩は行ってなかったけど)放課後部室に並べられて、それはそれはもう強烈な説教を受けた。途中から事案とは全く関係のない個人攻撃に移り、僕は正論らしくないなと思いながらもあまりの剣幕に泣いた。最終的には、無期限部活停止ということになったと思う。
 その週の休日、近くのファストフード店に集合した僕たちは口々に不満を言い合った。確かに、あれはとても理不尽だった。不愉快だった。だってもう中学生なんだから、と思った。
 かといって僕は別にその立ち位置に不満を感じることはなかった。所詮、場所が場所なだけで、ちゃんとやったら揉め事も起こらないんだから、と。
 3年になると自分の所属するクラスも落ち着いて、部員も無事増えたので安心はしたし、別にアイデンティティの欠乏もなく、高校進学をどうするかに目を向けつつあった。
 学力もあってまぁこの辺りと絞ったのは放送の強豪。だが、ここで妥協して後に別の選択肢を選び、ついでにその強豪は全国優勝することになるけれど、それは別の話。
 中学時代は部員や顧問とのトラブル以外には目立ったことはなく、結局は進学先でも放送部を続けることになる。

 高校に入り放送部に入部したが、部員は俺だけだった。まぁ面白い先輩たちだったと思う。
 鬱屈な話だろうから、一つ小話を入れると、ある日の昼放送でその時の部長と副部長がサポートにつくことになっていたんだけど、僕が弁当を食べるときに「いただきます」と手を合わせたら「ちゃんと手を合わせるんだ……!偉い!」と褒められたので、ほわほわした雰囲気で萌えました。そらあの声で言われたらそうなるて。
 楽しくやっていなかったといえば嘘になるが、かといって本当に熱くなれる空間だったかはやっぱり別になる。
 中学生の時のような雰囲気は正直ここでも同様のものがあった。とは言っても3年が引退する6月まではまだマシで、ここでも2年がイニシアチブを取り出すとぐでーん。「やりましょうよ!」とは言うし、「部員勧誘します!」と自分で言ってるんだけど、こんなんじゃ失礼だけど入ってこんわな、と思っていた。
 その中で迎えた初めての体育祭と文化祭はどちらも熱中症になりかけて頭がぼんやりしたが、まぁそんなものかと思った。生徒会との対立、水分がろくに取れない環境など様々だったが、それ以上に自分の動けなさ、無能さを痛感して、帰ったら寝てしまわないとと思うくらいだった。
 3年生の先輩はどこもつくづくいい人だったと思う。まぁそれが本当だったかは僕だって一つ上のことを見てるから分からないけど、勧誘の経緯が凄かったから多分人徳は積んでいただろうなぁ。
 僕は2年になった。下の学年と同学年でちゃんと入ってくれた分、上が抜けると生え抜きは僕だけということになってしまう。責任重大と思った。
 この時の部活動が一番楽しかった反面、考えて苦しんでトドメを差しかけたところでもあった。
 文化祭で新たな試みがあり、生徒会との折衝に問題はあれど過不足はなく進んだこと。夏休みの部活。何より、憧れのラジオ番組への出演。あとは快調にその他のことが回り出したのも大きかった。
 その分辛いこともあるのは人間として至極自然なことだったが、しかし辛さなんて実効されるのはじわじわと遅いものだ。
 高校に入って放送部アカウントなるものをTwitterに置いたが、いくつか合わないところがあった。といっても相手に非のあるところということではなく、微妙なところでのプロ意識の片鱗を見たのはとても辛かった。それくらい持たなきゃやっていられないことだと理解していても、それを持つだけの精神性の覚悟はなかった。
 そこにも関連するけど、その年の11月には放送部を舞台にした漫画がきちんとした描写を行えていないなどでこちらとしては問題になったんだけど(記事)、僕が「現場への敬意」を唱えた以上に何人もの方がちゃんと適切に描写への反論をするのを見て、僕はやっぱり熱量ないなと。熱量があったら、もう少し怒っていた。
 それが起きたのがちょうどラジオ収録や大会と被るので、バリバリ楽しいつってる時にもう半分諦めの感覚は顕現していたんじゃないかな、と自分で振り返っている。
 さらに、その時の3年は仲間割れみたいな感じだった。どっちが悪いのかは分からないが、部長が他の部員に陰口されるという構図は、もしかすると良くあることなのかもしれない。
 この前の模試の問題に名前の出てきた阿部知二の「アルト・ハイデルベルヒ」は、まさしく陰口がテーマだった。高校の恩師の古希の祝いの帰り道、車で恩師の悪口を言う五人の当時の同級生たち。1人ずつ車から降りて帰っていくのだが、帰ったあとはその帰った人の陰口になる。そうして残った二人、最後のセリフが「やっぱり、じつにいいなあ。高校時代の友人は。何十年目に出逢って、何もかも信じ合って話せるんだからなあ。アルト・ハイデルベルヒ!」だったものだから嘘にへこたれる、という構成に難しさのない話だ。
 わざわざそれに共感するほど僕はいま擦り切れていないと思っていたけれど、経験を思い返すだけで随分違う。確か部長だけじゃなく一度顧問も槍玉に上がっていたっけ。
 もちろん、この記事も法則に照らして陰口に限りなく近いものだとは否めない。しかもそれを自らの反省のために使う反省のなさだ。不徳の致すところだが、しかしここで僕は正直に話したいので続ける。
 僕はここで数年前の夏のファストフード店のことを思い出す。それを思い出して、さらに部屋の隅にうずくまっていた小学生の頃を思い出す。そうしてから、過去の自分をすべて殺してみる。
 こんな諍いなんてあって当然、なくて不健全と言われるのを恐れて黙っていたけど、「こんな諍い」なら目の前でフリースタイルダンジョン(例えね)やってくれた方が遥かにいいんであって、何も後輩の前ですることやないんや、と一度だけ言ったら、その場に一人だけいたメガネボーイ系先輩は何とも言えない顔で、しかも何も言わなかった。たぶん、そうだ、と思った。

 今年に入り修学旅行などいろいろあったが、3年になった。しかし、ここに来て顧問が変わり、いよいよ放送のことをちゃんと知っているというのが俺だけということになってようやく考え詰めた。
 それからというもの、いよいよ放送部というものについて、その概念についての疑義が高まりだした。
 そもそも自分の今いる地平は安定した定義だったか?なぜ部活動だったのか?放送部にいる意味ってなんだ?
 かなり混乱した。
 この放送部の繋がりは捨てたくなかった。純粋に楽しいことのやれる繋がりもあった。だけど、それ以上に過去の無関係な言葉たちと、自らの存在地の定義の揺らぎが気になりだすともうおしまいだった。
 原稿の練習はしていたけれど、結果として最後の大会には出なかった。目の前が真っ白になって読めなくなる、と思ったのは、後にも先にもここだけだろう。少なくとも今までは「舞台に立ったらなんとかなるやろ」で突っ走ったけど、それが出来なかったことが重かった。
 翌日に僕は相談し、この部活から「消える」ことにした。
 書いてみて、結局は人間不信が一番大きかったんだろうか、と思いつつも、どこまで真面目にやろうか自分で決められなかった環境全てに中指を立ててやりたい気分でもあった。それでも後期は力を注いできたと思うし、実績ではないが面白いものは残せた。
 終わりに、日本の放送部の制度についてやはり問題あるんだろうかと思うので述べておく。CDの管理、フリーペーパーの存在(結構余るんだよね)、大会への熱意の差、委員会と部の違い、分かるようでわからない基準、妙な意識とか、まぁある意味ではそうなるべくしてそうなったことが多くあれど、外から理解されないことはとても多いように思う。
 外から理解されないのはまだしも、僕みたいに後悔して内側からの理解が出来なかったほうからしたら、半分クソくらえ的な気持ちはある。
 最初にあれだけ言っても読んでしまった未来のまだある人もしくはそのあたりの関係者について、文句は受け付けるけどちゃんとは聞けないと思う。
 あと、ドキュメントを作らなかったのは地味に後悔してるけど、だからといって大学で放送サークルに入らないとは思う。何も無かったとは言わないけど、もう少しマシな6年間の使い方があったんじゃないかと思う。例えば小学生のときに茶道をほんの少しだけ嗜んでいたんだから、とか。
 しかしこうも思う。中島敦「山月記」の有名な一節、「おれはしだいに世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚とによってますます己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。(中略)人生は何事をもなさぬにはあまりに長いが、何事かをなすにはあまりに短いなどと口先ばかりの警句を弄しながら、事実は、才能の不足を暴露するかもしれないとの卑怯な危惧と、刻苦をいとう怠惰とが、おれのすへてだったのだ。」虎と成り果ててやっと気がついた悔いの熱さに、身が焼かれそうな熱帯夜だった。

 もうすぐ田舎道にバイクで突っ込んだ先輩の命日が来る。というのもあるのだが、やはり引退して一番に思い浮かべて心苦しくなる言葉が一番に来る。
「君はこれから頑張ればいけるから。昔の私を見てるみたいで怖いんだよね。でも頑張ればその時はその時でどうにか乗りきれる」
 この言葉は二年前の三月の佳き春の日。元部長なりのエールを受けながらやってきたのにこんな結末か。僕は、何もしちゃいない。
 いつか本当に笑って話せるのだろうか。作り笑いじゃないだろうか。僕は笑って、それを受け流せるだろうか。
 

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