誰に向けて書くか、作るか

 もうだいぶ前に買ったオレンジ色の表紙に直筆の著者名が記された本を手にとって呼んだ。題名は「僕の死に方」。
 流通ジャーナリスト・金子哲雄氏はこの本で自らの経歴・栄光、そして大病との闘い、臨終と退治する覚悟を全て書きつくした。子供の頃、価格情報を調べることで母に褒められた経験から自らの使命を「お得情報を発信する人」と定めて、そしてその考えに基づいて戦略的に完全燃焼した、その全生をだ。
 さて、かつては経営者向けの雑誌での執筆を主としていた彼が、テレビにも出演するジャーナリストになるきっかけは、テレビ番組の街頭インタビューに出演するという「ちょっとした偶然だった」という。
 偶然を偶然のままにするわけはなかった。彼はすぐさまツテを辿って、久米宏も所属する「オフィス・トゥー・ワン」に所属。そこからの快進撃は言うまでもないだろう。
 が、その道のりの足がかりも、メディアの特性を理解し「先読み」を当てた部分が大きいと思う。そもそも、テレビの出演よりも先に週刊誌で記事を掲載してもらい、それが掲載されている週刊誌をテレビの喫煙室に置いたのは、テレビの取り上げるネタは週刊誌で一次評価なされたものが多いという読みが関わっている。ちなみにそれは何故かと言うと、テレビのネタは映像を撮るコストも合わせて制作費が高額で、さらに安定して視聴率を稼ぎたいので初出しネタは避けたい傾向があるのだという。
 さらに、テレビに関しては、裏番組にも出られるようにコメンテーター出演ではなくスポット出演などにしたり、週刊誌を読んで鍛え抜かれた目で「女性視点」でのコメントを心がけることで、日中での露出でライバルとの直接的な舞台の衝突をさけたり――と、徹底的にその性質を読んだ。

 この本の論旨とは違うかもしれないが、ここである点を呈示したい。
 ここまでの流れを逆にとらえると、テレビはそれだけ分析されるメディアになったといえる。
 分析されると、相手は対策をねって戦法を読んでくる。リオデジャネイロオリンピックのレスリング決勝、吉田沙保里の対戦相手、ヘレン・マルーリスは純粋な意志をもってそれを成し遂げたし、スポーツでない極端な例を挙げるならば、その最果てはドワンゴと日本将棋協会が主催する「電王戦」で将棋の名人冠を持つ棋士が敗れたケースだろう。
 テレビはいま、そんな立場にある。
 金子哲雄の分析は個人による個人のための一人の力でしかなかった。だからこそ、テレビというメディアを使って、見てもらう人をいかなる時も目の前に置きながら、喜んでもらうための身近な経済的解説を行った。
 だが、コレがインターネットメディアになると、テレビというメディアを使わずとも、自ら一次ネタを発信できるし、ネットベースで必要に応じて取材するからテレビどころか雑誌より取材コストは若干少ないかもしれない。これはテレビの従来の弱点を見抜き、そしてそのテレビに抱かれた不満をうまく利用したといえる。

 テレビの例を挙げたが、これはあまり一般的な例ではないと言われるかもしれない。しかし、この例に一貫して顕出しているのは、見てもらう人を意識して、見てもらう人の感じる所を分析した結果は、個々によってその用いられ方が異なるということ。見てもらう人が意識できなければ、そこでそのメディア、そのライター、その人の文化的な意志を死んだに等しいという考え方だ。これは「自己満足」でも完結できる創作系とは一応分離される考え方でもある。
 しかしながら創作系においても他人を意識することは自らの表現をより濃く力強いものにする上で非常に重要になる。自分のために書くものから、他の作品を分析することで他人軸になっていくプロセスは多くの人が経験する道だ。
 他の作品の表現の妙あるいは弱点を見つけて自分の糧にしていくその端々で、読んでいる人をどうリアクションさせるかを考えるようになるということだろう。
 自らの軸を持ちつつ、それが消失しないギリギリのところで他を出す想像力は巷にあふれている。

この記事へのコメント

最近の記事

人気記事