肩の力を抜く方法がわからない

 どうも僕は自分語りをしてしまう性分で、ついこの間もその傾向について同級生に指摘されてしまった。なんというか、昔から自分の経験を外に曝け出したいという欲望が備わっている感じがある。めんどくさい人と形容されるタイプの人間と思われるのは承知でいろいろ人に語るのが、やめられない。
 ついさっきテレビで見たものについて語るのもやめられない。さすがに人前では自重するが、家族の前や知り合いの前となると止まらない。子供の頃はよく「全部に突っ込みを入れる異端児」と評されたものだ。
 そんな僕がほんとに30分ほど前に見たものについて深く掘り下げていこうとするのは、いかに自然なのだろうかとため息すらつきたくなるけれど。
 ◆◆◆

 テレビに出ていた心理学者がこんなことを言っていた。
 緊張してあがっている人に対してアドバイスするとき、日本語の表現では「頑張って」とか「根性見せろ」とか精神的表現が目立つ。一方で、英語的表現となると、「Cheer up!(声を上げろ)」とか身体的表現が多いというものだった。

 こういう話を聞くとどうしても、いくら精神的表現でないとは言え「肩の力を抜け」と言われて肩の力を抜けた試しはないということを思い出してしまう。何をやっても肩が上がってしまう。声は上ずる。いや、上ずってはならないのだけれど、すくなくとも自分の中で明らかに「緊張しているな」と思ってしまう。

 そういうときは、いくらアドバイスを貰おうと無駄なのだ。

 中学・高校ともに放送部に所属しているために、曲がりなりにも大会に出ているので、それなりに顧問からアドバイスを貰ったりする。大会直前になるとよく精神的な方のアドバイスを貰う。「肩の力を抜け」とは中学時代の顧問にもらった言葉であるが、心にはそう響かなかった。
 もちろんそれは顧問が悪いわけではない。実際に肩の力を抜く方法がわからない自分が悪いのは明白だ。
 当時の僕はひねくれていたので、今より他人の好意を素直に受け入れられなかった気持ちは強かった。そして、その傾向は今も続いている。

 気遣いを受け入れられない、受け入れる方法を知らないことに苛立ちを感じている。
 いくら身体的なアドバイスでも、精神的な抽象度が高いときは特になんの足しにもならぬことは覚えて帰ってほしいと思う。するりとできるやつはどんなアドバイスをあげても何でもできる。悔しいが天才はいるので、そういうやつは好きにアドバイスでも投げてやったらいいじゃないか。
 拗ねていた。

 でも、いまになって、「大抵うまくいく人は力を入れ過ぎない、使う動力が少ない」と気がついたのは収穫だ。つまるところ、あのアドバイスは「そんな力のかかるやり方に固執するな、頭を使え」ということを直前にして暗示するアドバイスなのだと思う。気遣いではなく、暗示というところにいじらしさを感じるが。
 そしてもう一つ思う。そりゃいい言葉だけど、直前に言う言葉ちゃうでそれ。

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